オーケストラものに重点をおいた音楽への非正統派なご案内
Yasushi Akutagawa芥川 也寸志 |
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市販メディアなし 指揮:外山雄三/東京交響楽団 この曲は、本門仏立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)の委嘱により作曲された、芥川也寸志の遺作となった作品である。芥川は'89年1月に肺癌にて病没したが、ここに挙げた演奏は、同年5月2日にサントリーホールで行われた追悼コンサートでのもので、本作の初演にあたる。 この演奏会の模様は、NHK-FMの「クラシックコンサート 芥川也寸志の作品を顧みて」と題した番組('89)の中で取り上げられたが、本作の作曲の経緯は、同番組の解説によると概略次の通りである。芥川は、'88年の10月頃まで作曲の筆を進めていたが、全体の1/6までオーケストレーションができたところで入院となり作曲を中断、この事態を憂えた芥川は12月の末になって作曲家の松村禎三に(他の文献によると黛敏郎にも)相談し、(松村禎三、黛敏郎門下の)若手作曲家、鈴木行一に残りのオーケストレーションを手伝ってもらうことになる。鈴木は芥川の病床を訪れ、細かく打ち合わせをして作品を完成へと進めた。一方、作詞のなかにし礼は、奉賛歌の歌詞は完成したもののタイトルはまだ決定しておらず、心に秘めていた「いのち」というタイトルを、芥川の病状を思ってついに言い出せなかったということである。 芥川は'60年代後半あたりから、生涯の師と仰いだ伊福部昭の作品の特徴でもあったオスティナート(執拗に同じ音型を繰り返す技法)をタイトルに冠した作品を立て続けに発表している。'69年に発表された「チェロとオーケストラのための《コンチェルト・オスティナート》」は、邦人作曲家によるチェロ協奏曲の名品として比較的良く演奏・録音されているが、ここではオスティナートを師の作品のような土俗的でバイタルな表現の手段として使うのではなく、もっと西欧的な表現による簡潔な書法の追及に向かっている。しかし、それから約20年後に作曲された本作品では、タイトルに「オスティナート」という単語こそ含まれないものの、さらに単純化したオスティナートによるバイタルな表現を推し進めており、作曲上の理念としてちょっとカール・オルフのそれを思わせるところがある。オスティナートを追及していった結果、晩年に至ってむしろ師の書法に接近を見せたとも言えるかも知れない。ユニゾンで読経のような平板な音型を執拗なまでに繰り返すことによって、トランス的な効果を生み出しており、聴いた後にしばらくフレーズが頭にこびりついて離れない人も多いのではないだろうか。 冒頭、曲は微かなティンパニの打音と低音弦による何やら不穏な雰囲気で静かに幕を開ける。そして弦楽器によるメロディがおぼろげに立ち現れてくると、やがて男声合唱(というよりユニゾンなので斉唱というべきだが)によりメロディの無い発声で「南無妙法蓮華経」と5回唱えられ、続いて「みょうほう、れんげーきょーの、もーじこーそー、わぁれーらーをー、いぃかーすーー」と、以降執拗に繰り返される抑揚のないフレーズが歌詞を伴って始まる。これは音階にするとシドドー、ドードードード、ド#ードドードー、シドドードードー、ドド#ド#ード#ーーのように同音連打または半音階の進行であり、メロディはあるもののやはりお経のように音高の上下がほとんどない。 この辺りから、バスのゆっくりと踏みしめるようなリズムが、コントラバスやティンパニにピアノの和音も伴ってズン、チャッ、ズン、チャッと明確に現れてくるが、このリズムは曲の中間部を除き、全体を通じて木魚のように鳴らされる。ただし、前述の通りポクポクといった軽い響きではなく、レスピーギの「アッピア街道の松」(交響詩「ローマの松」第4部)の冒頭を思わせる重量感を持ったものである。そしてしばらくすると、ヴァイオリン群による対旋律に、完全5度ずつ跳躍して上がったり下がったりするリズム補填的な音型が現れ、これがしばしばメロディの合間に合いの手のように挿入されて、平板な合唱の音型と印象的な対比をなす(※1)。 やがて、合唱パートには女声も加わり、オーケストラも次第に音量を増して盛り上がってくると、ティンパニのリズムにグランカッサ(大太鼓)とサスペンダーシンバルの強打によりアクセントを付けた「南無妙、法、蓮華経」が繰り返される。そして曲が速度も速め始めると、さらに鏧(きん※2)を模したと思われるチューブラーベルも登場し、カーン、カーン、カーンと思い切り打ち鳴らされる。そして、再度「南無妙法蓮華経」を繰り返しながら、頂点を築いた後、次第に静まっていき、中断することなく中間部に入る。 この中間部は、混声合唱によりしめやかに歌われる緩徐的な音楽である。最初はア・カペラで歌われ、その後オーケストラが加わるが、打楽器類は一切登場しない。 中間部が終わると、そのままピアノによるバスのゆっくりとした同音連打に乗った男声による「南無妙法蓮華経」に導かれて、後半部分が始まる。後半部は大筋で前半部に近い構成であるが、後半に向かい次第に熱を帯びてくると、まるでずらりと並んだ無数の僧たちが読経しながら次第に法悦の境地に達していくようで、(聴覚的に)壮観である。そして、全曲中における大きなクライマックスを迎えると、これまでに登場した打楽器にさらにタムタム(中国起源の銅鑼)も加わって叩きまくられる中で、オーケストラはパイプオルガンの両手両足による長い和音のように咆哮を上げて全曲が締めくくられる。ここで曲が終わるや否や会場からは「ブラボー!」の叫び声が聞こえてくる。 ところで、読経を合唱に取り入れた他の管弦楽作品としては、黛敏郎の傑作「涅槃交響曲」がある。「いのち」とこの「涅槃交響曲」とは、共に伊福部昭を師と仰ぐ作曲家による、お経を用いて音楽的バイタリティの表出を図った作品でありながら、そのためのアプローチにおいては両者は大きく異なっており、その点は興味深い。 「涅槃交響曲」の例えば第2楽章「首楞厳神咒(しゅれんねんじんしゅう)」では、男声合唱においてオクターブの12音すべてを同時に鳴らすクラスターをマッスとしてぶつけるなど、読経の持つエネルギーをオリジナルに近い形でオーケストラ上に再現することを狙ったように感じるが、「いのち」の場合は、読経の題目をオスティナートの音型になぞらえて、あくまで西洋音楽的な合唱曲の語法の上でエネルギーの放出を図ったように感じられるのである。 いずれにしてもこの作品は、少なくとも芥川作品の愛好者であれば必ず気に入ってもらえると信ずるものだが、初演から間もなく40年を迎える現在に至っても、コンサートで再演はされるものの、CD化はなかなかされない。今年('25)は、ちょうど芥川也寸志の生誕100年にあたるし、20~30代の頃に書き上げられた作品ばかりではなく、こうした晩年の作品の録音にも是非光を当てて欲しいものである。 ※1)少し飛躍した比較にはなるが、ほとんど音高の上下が無いフレーズが続いたかと思うと、ピョコっと音高が跳躍する対比が印象的な音楽として思い出したのが、TRFの「ボーイ・ミーツ・ガール」(作曲:小室哲哉)である。 ※2)お坊さんがお経を唱える時に撥で叩く、あの座布団に鎮座した金属製のお椀型の打楽器(?)のこと。 |
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