オーケストラものに重点をおいた音楽への非正統派なご案内
Yoko Kanno菅野 よう子 |
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VIZL-22 / ビクターエンタテインメント(株) 指揮:マリオ・クレメンス / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバー 「稀代のコーディネーター」そう言い切ってしまうのが良いかも知れない。この作曲家の評価はちょっと難しい。 「パクリ」「盗作」などとネット上でもすでに騒がれているが、その多様で印象的な楽曲の多くが、実は他人の作品や作曲スタイル、民族音楽等、既存の音楽からの引用を素材としたものであることから、そのことの是非が論争の的となっているのだ。しかし、そのようなことが一般に明るみになってからも、雑誌等では度々特集記事が組まれ、時代の寵児としての人気は衰えることを知らない。この「菅野フィーバー」は一体何なのか。 これは筆者の主観であるが、このような作曲家の出現は時代の要請によるもの、つまり、ある種の必然による帰結ではないかと思う。曲の解説に入る前に、ちょっと横道が長くはなるが、本稿ではまずその点に触れてみたい。 西洋音楽における創作活動は、20世紀終盤から行き詰まりを迎えていたように思える。近年のメディア技術と結びつけた新たな表現手法の開拓といったような方向性(※1)は別として、楽譜に書かれたものを基本とする従来の音楽の延長線上で見る限り、大方のことは20世紀前半までにやり尽くしてしまい、従来にない新しい表現や響きを生み出すことには限界が見え始めていたようである。 特に芸術音楽の分野においては、新規性を重視し「通俗性」といったものに価値が認められなくなった風潮の中、作曲家達は、「メロディ」「リズム」「ハーモニー」という古典的な音楽の3大要素をも否定し、偶然性の音楽や音のない音楽(※2)といったものまで生み出したりもしたが、これらはもはや一般大衆には音楽として受け入れてもらうことすら困難であった。結果として、概ねストラヴィンスキーよりも前衛に属する音楽は「現代音楽」というレッテルを貼られ、専門家と一部の愛好家にしか聴かれないものになっていってしまう。情報化社会が進展し、既存のビジネスモデルに立脚した音楽産業自体が衰退し始めた昨今、閉鎖的な価値観で大衆からの乖離を続けては、芸術だと言ってみたところで、いずれ時代の変化に取り残されてしまうという危機感が音楽界にもあったに違いない。 ネタ切れ感、という意味では劇伴音楽の分野でも同じである。従来は個々の作曲家のオリジナリティというものがもっと重視されていたし、曲を聴けば誰の作曲かわかるような個性的な顔を持つ作曲家が多かった。しかし、その傾向は稀薄になってきたように感じられる。特に情報の拡散が速い昨今では、長期的に埋没しない個性を生み出し続けることは、難しくなってきているのかも知れない。例えばハリウッドの映画音楽においても、柳生すみまろの名著「映画音楽 その歴史と作曲家」(芳賀書店)にリストアップされていた作曲家達の多くが世代交代によって消えた後は、どうもサウンドの均質化とマンネリ化が進行しているように感じられてならない。皮肉なことに、日本ではこの「停滞」したハリウッドの映画音楽に今さら追従するかのように、今風のハリウッド調のオーケストラ曲を作る作曲家が増えており、国民性が前面に出たような劇伴音楽は相対的に少なくなってきている(※3)。 最近の聴衆は、ある意味においては耳が肥えている。今日の我々は、インターネットやモバイル端末を通じて時代も国もジャンルも異なる音楽を、いつでもどこでも容易に検索して聴くことができる。たゆみなく入って来る情報の海の中で、興味の赴くまま次々と音楽を取り換えることが可能になったことで、既視感ならぬ「既聴感」を感じることは昔に比べて増えているだろう。現代生活においては、表層的な知識は増え易い一方で、騒音の中での「ながら聴き」や「ポイ捨て」の慣習化で1つの作品をじっくり鑑賞することは少なくなり、飽きるのが速くなりがちである。だから、常に新しい刺激に飢えているのだ。 菅野の音楽からは、脚本に対する理知的な洞察に基づいて全体の設計を行ったというよりも、どちらかといえば、その場面々々に調和する響きを直感的なセンスで選択し組み上げていったという印象を受ける場合が多い。その頭脳に蓄えられた膨大な音楽データベースから選び出された素材(関係スタッフの協力もあるかも)は、時に解体され、変形され、あるいは繋ぎ合わされ、重ね合わされて、楽譜というキャンパスの上にポップアートの如くコラージュされていく(※7)。 さて、そんなわけで、菅野が手掛けた作品の中から特に選んだのが、大友克弘のオムニバス映画「メモリーズ」の第1話「彼女の想いで」である。物語は、地球への帰還途中に救難信号を受けた宇宙飛行士達が、巨大な薔薇型宇宙船へと救助に向かうが、そこで、今は亡きオペラ歌手の残留思念が作り上げた想い出の世界に囚われてしまうというもの。本作の場合は、オペラ歌手エヴァ・フリーゼルとその華やかなりし頃の想い出の象徴として、要所々々にプッチーニのオペラの名曲を織り込むという入念な音楽設計があり、その下でクラシック風、現代音楽風、ハリウッドのSF映画音楽風など、多彩な音楽スタイルが違和感なく同居している。 ここでも、第1話のオープニング曲「Chorale」が冒頭から'68年版「猿の惑星」(ジェリー・ゴールドスミス)のメインタイトルみたいだし(※10)、続くサキソフォンのソロと聖歌風合唱とのコラボレーションというアイデアは、明らかに当時の大手CDショップ等で推薦盤になっていたヤン・ガルバレク&ヒリヤード・アンサンブルのアルバム「オフィチウム」(※11)にヒントを得たものである(※12)。人気作曲家として多忙な中、こんなものまでリアルタイムに聴いているバイタリティに妙な感心をしてしまうのだが、この曲のことはさておき、いくつか気になる曲を挙げてみる。 残念なことに、菅野作品はこのようなものばかりではなく、やり過ぎ感が拭えない場合も多い。あまりにもどこかで聴いたようなサウンドばかりでは、新曲に出会った喜びがない。思うに頭の中で常に既存の音楽が鳴っていて、自身の顔がわからなくなってしまっているのではないか。この辺で他人の音楽を聴くのは一旦やめて、吸収したものが自分の中でじっくりと熟成する時間を持ってみてはどうかと思うのだ。 最後に余談だが、オペラ歌手のイメージモデルはやはりマリア・カラスか。ストーリーは史実と直接関係ないものの、エヴァの波乱の生涯に、何かとセンセーショナルな話題が多く映画にもなったこの世紀の歌姫の姿がダブって見えてしまうのは筆者だけではないだろう。スターテノール歌手カルロ・ランバルディとのロマンスの向こう側にも、実在のテノール歌手ジュゼッペ・ディ・ステファノのことが浮かんで見えるではないか。なお、どうでも良いことだが、このテノール歌手にはこれとは別に同姓同名の実在の人物がいる。スピルバーグの「E.T.」等の造形も手掛けたイタリア生まれの特殊効果・造型作家がそうだが、SFの世界では有名人なので、このネーミングはスタッフの「お遊び」であろう。 ※1)ポップスの分野ではPerfumeがライブでプロジェクション・マッピングという新しいメディア表現との融合を試み海外でも話題になったが、これが無ければ音楽的には現代的なファッションセンスによるテクノポップのリバイバルという形で終わっただろう。また、冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」におけるオーケストラと初音ミクのコラボレーションも記憶に新しいところである。 ※2)アメリカの例ではあるが、著名な現代作曲家ジョン・ケージの作品の中から、ちょっと極論的な例を挙げてみた。後者の音のない音楽とは、禅の思想から着想したという「4分33秒」のことで、韓流ドラマ「ベートーヴェン・ウィルス」でも指揮者カンマエが新市長をやり込めるシーンに登場したのでご覧になった方も多かろう。筆者は銀座のヤマハで輸入楽譜を売っているのを見たことがあるが、全楽章にTacet(休み)と書いてあるだけだったと記憶している。なお実績がある作曲家がやったからこそ、こういうことが受け入れられたのであって、その点は誤解なきよう。 ※3)佐藤直紀、松本晃彦、菅野祐悟、池頼広、蓜島邦明など、そういった傾向のオーケストラ作品を書く作曲家は多い。川辺真(風戸慎介)、渡辺俊幸、田中公平など、ちょっと前から出てきた世代で、もともとアカデミックな音楽教育を米国で受けた経験のある作曲家達の傾向とも少し違うのである。 ※4)NHK大河ドラマ「竜馬伝」(佐藤直紀)で印象的であった岩崎弥太郎のテーマが、トルコ軍楽隊の音楽をベースにしたものであることは割と良く知られている。トルコ軍楽隊の音楽は、菅野作品でも「天空のエスカフローネ」Sound Track 2の「ASK THE OWL」がこれをベースにしているが、中でも中外製薬「グロンサン」のCMでも使われた「ジェッディン・デデン」は特に有名で、劇伴音楽でも良く模倣される。因みに、トルコ軍楽隊の音楽は18世紀のヨーロッパで流行し、モーツァルトのピアノソナタ「トルコ行進曲付き」やベートーヴェンの第9交響曲の中にそのリズムが取り入れられたりもしている。 ※5)樋口康雄や三枝成彰、すぎやまこういちといった作曲家を見ればわかるとおり、従来の作曲家もクロスオーバーという意味でのマルチな活動は行っていたが、当時の劇伴音楽の製作方法としては、世界観を演出するために1つの作品中ではスタイルに統一感を持たせる方が一般的であったし、どのジャンルで作曲しようと、その作曲家の個性が強く出ていることが多かった。 ※6)クラシックの「○○の主題による変奏曲」といった類とは別の意味である。例えば、岩崎琢は菅野よう子ほどではないが素材の引用が多い作曲家の1人である。また、佐藤直紀は映画「ジェネラルルージュの凱旋」でフィリップ・グラスそっくりの作風で作曲しているし、松本晃彦は、「サマー・ウォーズ」の中の1曲で、スティーヴ・ライヒのスタイルを模倣したことを公言しており、和風ライヒを称して「サムライヒ」と名付けている。逆に良く模倣される作曲家としては、上に挙げたスティーヴ・ライヒを始めとして、ジェリー・ゴールドスミス、ジョン・ウィリアムズなどがいる。ただ、そのジョン・ウィリアムズ自身、スピルバーグの「A.I.」の音楽でスティーヴ・ライヒ風の曲(The Mecha World)を作っているので、こうした音楽の原曲など辿り出すと何が何だかわからなくなる。 ※7)例えば、「ブレンパワード」Sound Track 1の「Run」。これは、全体的にはマーク・マンシーナの映画音楽「ツイスター」(国内版CDは劇中音楽のコンピレーションなので、スコアを聴くには輸入盤を入手すべし)のスタイルで作曲されているが、序奏部の末尾ではラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の第3楽章の冒頭を模した断片が聴き取れる。 ※8)KECH1077 (株)光栄 ※9)VICL-699 ビクターエンタテイメント(株) ※10)CDでは割愛されている部分に、エレキギター風の音響を挿入するというアイデアもあり、この点でも似ている。ただし、全体にサウンド作りのアイデアを拝借したという程度の類似性なので、これこそ制作スタッフのオーダーによるものか。 ※11)POCC-1022 ユニバーサルミュージック('06/02発売) ※12)同じアイデアを使ったのがもう1曲ある。COBOY BEBOPサウンドトラックVol.1の「Space Lion」だが、こちらはもっとひねってある。 |
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